テイエムオペラオーは、2000年に年間無敗でGIを6勝し、史上初の年間獲得賞金10億円を突破した、「世紀末覇王」の異名を持つ競走馬です。決して恵まれた血統とは見なされず、派手さもありませんでしたが、驚異的な勝負根性と卓越したレースセンスで、日本競馬史に燦然と輝く金字塔を打ち立てました。主戦騎手・和田竜二騎手との揺るぎないコンビは、多くのファンに感動を与え、その偉業は今なお語り継がれています。
テイエムオペラオーは1996年3月13日、北海道浦河郡浦河町の杵臼牧場で誕生しました。父はGI・エクリプスステークス勝ち馬のオペラハウス、母はワンスウエドという血統構成でした。父オペラハウスはスタミナ豊かなヨーロッパ血統で、日本ではステイヤーを多く輩出しましたが、その馬体や血統背景から、テイエムオペラオー自身はデビュー前には「ダート向き」と評価されることも少なくありませんでした。牧場での育成段階でも、決して目立つ存在ではなく、むしろ地味な評価がつきまとっていました。
しかし、栗東の岩元市郎厩舎に入厩し、主戦となる和田竜二騎手と出会ったことで、その才能は開花していきます。1998年9月にデビューしたテイエムオペラオーは、新馬戦こそ2着に敗れたものの、続く未勝利戦を快勝。3戦目の京都3歳ステークス(当時GIII)で重賞初制覇を飾り、クラシックの有力候補へと浮上しました。
3歳となった1999年、テイエムオペラオーはクラシック戦線へと駒を進めます。共同通信杯(GIII)を制し、クラシック第一冠である皐月賞へと挑みました。
クラシックを1勝ながらも、常に上位に食い込む安定感を見せたテイエムオペラオーは、4歳(現表記3歳)シーズンを終え、翌年のさらなる飛躍を期待される存在となっていきました。
2000年、テイエムオペラオーは日本競馬史に新たな伝説を刻むことになります。年間を通して無敗、G1競走6勝という前代未聞の偉業を達成し、「グランドスラム」と称される圧巻のパフォーマンスを披露しました。この年は、特にメイショウドトウとのライバル関係が注目され、幾度となく激闘を繰り広げました。
4歳(現表記3歳)を迎え、テイエムオペラオーの快進撃は年明けから始まりました。初戦の京都記念(GII)を快勝すると、続く大阪杯(当時GII)でも勝利を収め、順調な滑り出しを見せます。しかし、本当の舞台はここからでした。春の天皇賞へと駒を進めた彼は、長距離適性を改めて証明するべく、淀の長丁場に挑みました。
天皇賞(春)では、宿命のライバルとなるメイショウドトウ、そしてナリタトップロードらが揃い、ハイレベルな一戦となりました。レースでは中団から抜け出し、直線で力強く伸びてG1連勝を達成。この勝利により、テイエムオペラオーは名実ともに長距離路線のトップランナーとしての地位を確立しました。
天皇賞(春)の後、テイエムオペラオーはグランプリレースである宝塚記念(GI)に出走します。このレースでも、前年にダービーを制したアドマイヤベガ、そして常に立ちはだかるメイショウドトウとの再戦となりました。他馬の追随を許さない圧倒的なパフォーマンスで勝利。この時点で、彼はすでに年間GI3勝という偉業を視野に入れ、その存在感は揺るぎないものとなっていました。このレースでの勝利は、彼の能力が距離だけでなく、強豪ひしめく中距離においても最高峰であることを示しました。
秋シーズンに入り、テイエムオペラオーは更なる高みを目指します。まずは京都大賞典(GII)で順調に勝利を収め、秋の最大目標である天皇賞(秋)(GI)へと向かいます。中距離の強豪が集うこのレースは、彼の勝負根性が試される舞台となりました。
天皇賞(秋)では、直線でメイショウドトウと壮絶な叩き合いを演じました。一時は交わされたかに見えましたが、そこから驚異的な粘りを見せ、ゴール寸前で差し返すという劇的な勝利を収めます。この勝利は、テイエムオペラオーの強さが単なるスピードやスタミナだけでなく、何が何でも勝ち切るという精神力に裏打ちされていることを証明しました。これにより、彼は年間G1・4勝という偉業を達成しました。
天皇賞(秋)を制したテイエムオペラオーの次なる目標は、世界の強豪が集うジャパンカップ(GI)でした。このレースでもメイショウドトウとの熾烈な争いが予想されましたが、世界のトップクラスの馬たちを相手に、彼はその実力を遺憾なく発揮します。
レースでは、好位から抜け出し、他馬の追撃を振り切って堂々と勝利。この勝利は、日本馬が世界の舞台で通用することを改めて示すとともに、テイエムオペラオー自身が日本だけでなく、世界レベルのトップホースであることを証明しました。年間G1・5勝目となり、彼の快進撃は止まることを知りませんでした。
そして2000年の最終戦、グランプリレースである有馬記念(GI)を迎えます。テイエムオペラオーが年間無敗でG1・6勝を達成できるか、日本中の注目が集まりました。このレースでも、最大のライバルであるメイショウドトウとの最後の対決が待っていました。
有馬記念は、まさにテイエムオペラオーの勝負強さと、和田竜二騎手との絆が凝縮されたレースでした。直線でメイショウドトウが猛然と追い込んできますが、テイエムオペラオーは決して譲らず、最後の最後まで粘り強く脚を伸ばし、僅差で勝利を収めました。この劇的な勝利により、テイエムオペラオーは年間無敗でG1・6勝という、まさに不滅の金字塔を打ち立てました。さらに、年間獲得賞金は10億円を突破し、これも史上初の快挙でした。この「世紀末覇王」のグランドスラムは、日本競馬史における最も輝かしい記録の一つとして、永遠に語り継がれることになります。
2000年の偉業達成後、テイエムオペラオーは2001年も現役を続行しました。前年の疲労も考慮されながらの出走となりましたが、王者の意地を見せ続けます。初戦の大阪杯(GII)を勝利で飾ると、天皇賞(春)(GI)ではメイショウドトウに敗れ2着となりますが、続く宝塚記念(GI)では、再びメイショウドトウとの激闘を制し、勝利を収めました。この時点でも、彼の強さは健在でした。
しかし、秋の天皇賞ではアグネスデジタルの4着、ジャパンカップでは3着、そして引退レースとなった有馬記念ではアメリカンボスに次ぐ2着と、惜敗が続きました。2001年は勝利こそGIIとGIを1勝ずつでしたが、常に上位争いを繰り広げ、最後まで日本のトップホースとして走り続けました。この年を最後に、テイエムオペラオーはターフを去り、種牡馬としての新たなキャリアを歩むことになりました。
引退後、テイエムオペラオーは北海道のブリーダーズ・スタリオン・ステーションで種牡馬入りしました。現役時代の輝かしい実績から、多くの期待が寄せられましたが、残念ながら産駒の中からG1級の活躍馬を出すことはできませんでした。しかし、地方競馬では多くの活躍馬を輩出し、堅実な走りでファンを魅了しました。彼の子どもたちは、その父譲りの勝負根性を受け継ぎ、各地で奮闘しました。
テイエムオペラオーは2018年5月17日に心臓麻痺のため22歳で逝去しました。彼の訃報は多くの競馬ファンに悲しみをもたらしましたが、その功績は決して色褪せることはありません。
テイエムオペラオーは、その血統や馬体から当初は高い評価を得ていたわけではありませんでした。しかし、その圧倒的な勝負根性と、主戦騎手・和田竜二騎手との深い信頼関係、そして岩元市郎調教師の緻密な管理が一体となり、数々の偉業を達成しました。
特に2000年の年間無敗GI6勝、年間獲得賞金10億円突破という記録は、現代競馬においても破られていない金字塔であり、彼の強さが如何に突出していたかを物語っています。派手さよりも実直さ、堅実さを重んじる彼の走りは、多くのファンに共感を呼び、地味と評されながらも「世紀末覇王」として愛され続けました。
テイエムオペラオーは、競馬は血統だけでなく、馬と人の絆、そして何よりも強い精神力が勝利をもたらすことを教えてくれました。彼の残した記録と記憶は、これからも日本競馬史の中で永遠に輝き続けることでしょう。