ナイスネイチャとは?

ナイスネイチャは、1988年生まれの日本の競走馬です。現役時代にはGII・GIII競走を4勝し、GI有馬記念で3年連続3着という稀有な記録を樹立しました。その惜敗が続くも常に上位争いを繰り広げる姿から「ブロンズコレクター」の愛称で多くのファンに愛され、引退後もその人気は衰えることなく、引退馬支援活動の象徴的存在となりました。2023年に35歳で亡くなるまで、JRA重賞勝ち馬としては歴代最長寿の記録を更新し、多くの人々に感動を与え続けた名馬です。

競走馬としての経歴

ナイスネイチャは、父ナイスダンサー、母ウラカワミユキという血統で、北海道浦河町の渡辺牧場で生産されました。鹿毛の小柄な馬体ながら、端正な顔立ちと愛らしい仕草でデビュー前から注目を集めました。

デビューからクラシック戦線

1990年8月、札幌競馬場でデビューし、新馬戦を快勝。その素質を早くから見せつけました。2歳時には函館3歳ステークス(GIII)で3着に入るなど、重賞戦線でも活躍しました。

3歳となった1991年、ナイスネイチャはクラシック路線を歩みます。皐月賞ではレオダーバン、イブキマイカグラといった強豪を相手に3着と善戦。続く東京優明(日本ダービー)では、後の三冠馬トウカイテイオーが圧倒的な強さを見せる中、再び3着と健闘しました。菊花賞でもレオダーバン、イブキマイカグラに次ぐ3着となり、クラシック三冠全てで3着という珍しい記録を樹立しました。この結果から、彼の「ブロンズコレクター」としての片鱗が早くも垣間見え始めました。

常に上位に食い込む実力はあったものの、GIタイトルには手が届かず、「惜しい」競馬が続くことに、多くのファンが歯がゆさを感じながらも、その安定した強さに魅了されていきました。

GII・GIIIでの活躍

クラシック戦線でGI勝利こそ逃したものの、ナイスネイチャは古馬になってからも安定した成績を残し、中長距離路線で活躍を見せます。1991年秋には鳴尾記念(GII)で重賞初制覇を果たし、GI級の実力を持つことを証明しました。翌1992年には京都大賞典(GII)を制覇。さらに1993年には小倉記念(GIII)と鳴尾記念(GII)を再び制し、合計4つの重賞タイトルを獲得しました。特に鳴尾記念の連覇は、その実力と安定性を裏付けるものでした。

これらの勝利は、彼が単なる善戦マンではなく、確かな実力を備えた名馬であることを示しています。GIではわずかに足りないものの、GII・GIIIではトップクラスの力を発揮し、多くのファンを沸かせました。

有馬記念での奮闘と「ブロンズコレクター」

ナイスネイチャの競走生活において、最も語り草となっているのが、中央競馬の年末を飾る大一番、有馬記念での活躍です。彼は1991年、1992年、1993年と3年連続で有馬記念に出走し、いずれも3着という驚くべき記録を打ち立てました。

特に1993年の有馬記念では、復活をかけたトウカイテイオー、菊花賞馬ビワハヤヒデという歴史に残る名勝負の脇を固める形で3着に入り、その存在感を強く示しました。この3年連続3着という記録は、競走馬としては極めて異例であり、GIを勝利することは叶わなかったものの、常にトップレベルの舞台で安定した力を発揮し続けた証です。

この有馬記念での活躍が決定打となり、「ブロンズコレクター」という愛称が定着しました。勝利には一歩及ばずとも、常に上位争いに加わるその姿は、多くの競馬ファンに共感と感動を与え、熱狂的な支持を集める要因となりました。

引退まで

ナイスネイチャは、1994年の有馬記念を最後に現役を引退しました。7歳まで現役を続け、実に41戦ものキャリアを走り抜きました。その間、大きな故障もなく健康に走り続けたことも、彼の頑健さを物語っています。引退後、彼は種牡馬となりましたが、目立った産駒を残すことはできませんでした。

種牡馬引退後の「引退馬支援」の象徴へ

競走馬としての現役生活を終え、種牡馬としても成功を収めることができなかったナイスネイチャですが、彼の本当のセカンドキャリアはここから始まりました。それは、多くの引退馬が直面する厳しい現実に対し、光を灯す存在としての役割でした。

功労馬としての日々

種牡馬を引退した後、ナイスネイチャは功労馬として、まず茨城県のJRA競馬学校で係留生活を送りました。ここでは若き騎手候補生たちの教育に携わり、彼らに馬との接し方や馬の管理を教える役割を担っていました。その後、功労馬として北海道日高町の「ひだか・ホース・フレンズ」へ移動し、余生を過ごすことになります。豊かな自然の中で、多くのファンの訪問を受けながら、穏やかな日々を送りました。

牧場では、彼の人懐っこく、穏やかな性格が多くの訪問者を魅了しました。決してGIを勝った大スターではありませんでしたが、そのひたむきな競走生活と、引退後の愛らしい姿が、多くの人々を惹きつけました。

引退馬支援プロジェクトとナイスネイチャ

ナイスネイチャの存在が特に大きく輝いたのは、日本の引退馬支援活動においてです。彼のバースデーに合わせて「引退馬協会」が実施する「バースデードネーション」は、毎年大きな注目を集めました。

このプロジェクトは、ナイスネイチャの誕生日である4月16日に合わせて寄付を募るもので、集まった寄付金は、ナイスネイチャ自身の余生だけでなく、他の多くの引退競走馬たちの飼育費や医療費に充てられました。ナイスネイチャは、決して引退馬支援のためのプロジェクトのために生まれたわけではありませんでしたが、その愛されるキャラクターと、長生きしてくれたことが、この活動を飛躍的に拡大させる原動力となったのです。

バースデードネーションが開始された当初は、寄付金の集まりも小規模でしたが、年々その規模は拡大し、最終的には毎年数千万円、累計では数億円もの寄付金が集まる一大プロジェクトとなりました。これにより、多くの引退馬が安心して余生を送るための道が開かれ、日本の競馬界における引退馬問題への意識が飛躍的に高まりました。

ナイスネイチャは、自らが引退馬支援の象徴となり、引退馬問題という、これまであまり光が当たらなかったテーマに広く一般の関心を集めることに成功しました。これは、彼の競走馬時代の功績にも劣らない、あるいはそれ以上の社会的な功績と言えるでしょう。

長寿と功績

ナイスネイチャは、2023年5月30日に35歳で永眠しました。これはJRAの重賞勝ち馬としては歴代最長寿の記録であり、彼の頑健な肉体と、支え続けた人々、そしてファンの愛情の深さを物語っています。彼の逝去は、多くのメディアで報じられ、日本中の競馬ファンがその死を悼みました。

35年という長い生涯を通じて、ナイスネイチャは競走馬として、功労馬として、そして引退馬支援の象徴として、その時代ごとに異なる形で人々に感動と希望を与え続けました。彼の生涯は、単なる競走馬の一生を超え、社会に大きな影響を与えた特別な存在として記憶されることでしょう。

なぜこれほど愛されたのか?

ナイスネイチャが、なぜこれほど多くの人々に愛され、引退後もその人気が衰えることがなかったのか。その理由は、彼の競走馬としての特性と、引退後の社会的な役割に深く根差しています。

善戦マンとしての魅力

ナイスネイチャはGIタイトルこそ獲れませんでしたが、常にトップレベルのレースで上位に食い込み、強豪馬たちと互角に渡り合いました。特に有馬記念での3年連続3着という記録は、「勝ち切れないが、決して負けない」という彼のキャラクターを象徴するものでした。多くのファンは、彼が勝利する姿を見たいと願いながらも、その惜敗続きの奮闘に自らの人生を重ね、共感と応援の気持ちを抱きました。

常に期待に応えようと走り、結果的に惜しいレースになる。その一歩足りない「人間味」あふれる姿が、完璧な勝利者よりも、かえって多くの人々の心を掴んだのです。彼のレースは、見る者に「次こそは」という期待と夢を抱かせ続けました。

人間味あふれるエピソード

ナイスネイチャは、その容姿や性格もまた、多くの人々に愛される要因でした。端正な顔立ちと鹿毛の美しい馬体、そして何よりも人懐っこい性格が、牧場での彼を人気者としました。訪問者が差し出すニンジンを美味しそうに食べる姿や、カメラに向かって愛嬌を振りまく様子は、多くのファンを魅了しました。

また、彼は大きな故障もなく、長きにわたり現役を続けた健康優良児でもありました。その生命力の強さもまた、彼が多くのファンに愛され、長く応援され続けた理由の一つです。牧場での穏やかな余生は、現役時代の熱い走りとの対比で、彼の持つ多面的な魅力を一層際立たせました。

現代における存在意義

ナイスネイチャが愛され続けた最大の理由は、彼が引退馬支援の象徴となったことです。彼が長生きしてくれたおかげで始まったバースデードネーションは、引退馬問題という、これまで一部の競馬関係者やファンにしか知られていなかった社会的な課題に、広く一般の人々の目を向けさせました。

彼の人気が、多くの引退馬たちの命を救うための原動力となり、競馬というエンターテインメントの裏側にある「馬のセカンドキャリア」という重要なテーマを社会に提起しました。ナイスネイチャは、単なる一頭の競走馬としてだけでなく、競馬文化の発展と社会貢献に大きく寄与した存在として、その名を歴史に刻みました。彼の生涯は、競走馬が引退後も社会にとって価値のある存在であり続けることを示した、希望の物語と言えるでしょう。

ナイスネイチャの物語は、競馬の魅力だけでなく、命の尊さ、そして困難に立ち向かうことの大切さを私たちに教えてくれました。これからも彼の記憶は、多くの人々の心の中で生き続け、引退馬支援のシンボルとして語り継がれていくことでしょう。