1990年代後半、日本競馬界に彗星のごとく現れ、その圧倒的な素質と類まれな勝負根性で多くのファンの心を掴んだ名馬、それがバブルガムフェローです。特に2歳時の無敗でのGI制覇、そして古馬になってからの劇的な復活劇は、今も語り草となっています。サンデーサイレンス初年度産駒の代表格として、日本の競馬史にその名を刻んだ彼の生涯と功績を、詳しく解説していきます。
バブルガムフェローは、1993年3月28日に北海道早来町(現安平町)のノーザンファームで誕生しました。その血統はまさに超一流。父は現代日本競馬の血統を築いた大種牡馬サンデーサイレンス、母はアイルランドオークス馬のバブルガムスターという良血馬でした。母の父であるサンプリンスは、欧州で芝の長距離を得意とする馬を多く輩出しており、バブルガムフェロー自身にもそのスピードとスタミナが期待されました。
幼少期からその素質は高く評価されていました。育成牧場での評判も非常に高く、特にしなやかな身のこなしと、秘めたる闘争心は関係者の間で語り草となっていました。調教の動きは常に抜群で、デビュー前から「大物になる」と囁かれ、将来を嘱望されていました。栗東の伊藤雄二厩舎に入厩し、順調に調整が進められ、ファンの期待を一身に背負ってデビューの日を迎えることになります。
バブルガムフェローは、1995年7月29日、札幌競馬場の芝1200mの新馬戦でデビューしました。鞍上は岡部幸雄騎手。圧倒的な人気に応え、抜群の切れ味で後続を突き放し、見事に新馬勝ちを飾ります。この勝利は、彼の規格外の素質を強く印象付けるものでした。
新馬戦の後もその勢いは衰えを知りませんでした。続くオープン特別の芙蓉ステークス(中山芝1600m)でも、他馬を寄せ付けない圧巻の走りで連勝を飾ります。そして迎えた2歳馬の頂点を決めるGⅠレース、朝日杯3歳ステークス(当時、現朝日杯フューチュリティステークス、中山芝1600m)では、後のGⅠ馬ともなるイシノサンデーやヒシアケボノといった強豪たちを相手に、終始余裕のある走りで直線一気に突き抜け、無敗でのGⅠ制覇という偉業を達成しました。この時の走りは、まさに強さの一語に尽きるものでした。
この朝日杯3歳ステークスでの勝利は、マルゼンスキー以来となる無敗での2歳GⅠ制覇という歴史的な快挙であり、翌年のクラシック戦線では間違いなく主役の一頭として注目を集めることになります。その走りからは、距離延長にも十分対応できるであろう高いポテンシャルが感じられ、多くの競馬ファンが彼の三冠達成を夢見ていました。
明けて3歳となった1996年、バブルガムフェローはクラシック戦線の主役として期待されていました。しかし、春のクラシックでは思うような結果を残すことができませんでした。
緒戦の弥生賞(中山芝2000m)では、同世代のライバルとなるロイヤルタッチに惜敗し2着。そして、迎えた皐月賞(中山芝2000m)では、人気を背負いながらも、イシノサンデー、ロイヤルタッチに続く3着に敗れ、自身初の連対を外す結果となりました。続く日本ダービー(東京芝2400m)では、鞍上が岡部幸雄騎手から蛯名正義騎手に乗り替わりましたが、ロイヤルタッチ、ダンスインザダーク、フサイチコンコルドといった強豪揃いのメンバーの中で6着に沈みました。このダービーでの敗戦は、バブルガムフェローの距離適性や、当時の体調面、精神面の課題が浮き彫りになった瞬間でもありました。
無敗の2歳王者としてクラシックを席巻するかに思われた彼にとって、この結果は大きな挫折でした。しかし、陣営は諦めず、夏の休養を経て秋への立て直しを図ります。この休養が、彼のその後の競走馬生活において非常に重要な意味を持つことになります。
夏の休養を終えたバブルガムフェローは、秋の毎日王冠(東京芝1800m)で復帰。このレースでは、古馬の強豪たちを相手に、見事な差し切り勝ちを収め、復活の勝利を飾りました。この勝利によって、彼の能力が衰えていないことを証明し、再びGⅠ戦線での期待が高まりました。
そして迎えた天皇賞(秋)(東京芝2000m)。このレースには、前年の三冠馬ナリタブライアン、阪神大賞典や天皇賞(春)を制したマヤノトップガン、桜花賞とオークスを制したダンスパートナーといった、日本競馬史に名を残す錚々たるメンバーが集結していました。多くのファンが古馬の強豪たちが上位を占めると予想する中、バブルガムフェローは中団からレースを進め、直線では馬群を割って鋭く伸び、見事に先行するマヤノトップガンを差し切って優勝しました。この勝利は、彼が距離適性の壁を乗り越え、真のトップホースへと成長した証であり、多くの競馬ファンに深い感動と興奮を与えました。この年の活躍が評価され、バブルガムフェローは最優秀4歳以上牡馬に選出されました。
天皇賞(秋)制覇後も、バブルガムフェローは日本競馬の中心で活躍し続けました。ジャパンカップや有馬記念といった大舞台では、常に強豪相手に善戦し、その勝負根性を見せつけました。特に、タフなレース展開になればなるほど力を発揮するタイプであり、彼の走りはまさに「闘争心」の塊そのものでした。どのレースにおいても決して諦めない姿勢は、多くのファンを魅了し続けました。
1997年も現役を続け、大阪杯(GⅡ)を制覇。再び天皇賞(秋)に挑みますが、エアグルーヴ、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといった史上稀に見るハイレベルなメンバーの中で、惜しくも3着に敗れ連覇はなりませんでした。しかし、このレースもまた、その年の年間最高レースの一つとして語り継がれる名勝負となりました。その後も現役を続行しますが、惜しまれつつ1998年の有馬記念を最後に競走馬としてのキャリアを終え、引退しました。
引退後は北海道の社台スタリオンステーションで種牡馬となりました。種牡馬としては、母の父サンデーサイレンスという良血と実績から期待されましたが、残念ながら自身のようなGⅠ馬を送り出すことはできませんでした。しかし、母の父としてはその血を繋ぎ、日本の競馬史に一定の影響を残しました。彼が残した蹄跡は、単なる競走成績以上に、その記憶に残る強烈な走り、そしてドラマティックな復活劇として、今も多くの競馬ファンの心に鮮やかに刻まれています。
バブルガムフェローは、単に一頭の名馬として記憶されるだけでなく、日本競馬の歴史においていくつかの重要な功績を残しました。
彼は、日本競馬の血統を一変させた大種牡馬サンデーサイレンスの初年度産駒であり、その優秀さを知らしめた先駆者の一頭です。彼の活躍がなければ、サンデーサイレンス産駒がここまで日本の競馬界を席巻することはなかったかもしれません。彼の無敗の2歳GⅠ制覇は、サンデーサイレンス旋風の序章を告げるものでした。
マルゼンスキー以来となる無敗での2歳GⅠ制覇は、若駒の早期完成度とその後のクラシック、古馬戦線への影響を改めて競馬ファンや関係者に提示しました。彼以降、2歳GⅠの重要性はさらに高まり、多くの素質馬がこの舞台を目指すようになりました。
クラシックでの挫折から見事に立ち直り、古馬となってから天皇賞(秋)という大舞台でGⅠを制覇した彼の復活劇は、多くの競馬ファンに勇気と感動を与えました。彼の競走馬としてのキャリアは、決して順風満帆ではありませんでしたが、逆境を跳ね除けるその精神力と能力は、まさにトップアスリートのそれでした。その美しいフォームと強靭な勝負根性は、今も多くの競馬ファンの記憶に鮮やかに残る「名馬」として語り継がれています。
参考情報: Wikipedia バブルガムフェロー