ギリシャ楽器とは?
古代文明のゆりかごの一つであるギリシャは、哲学、芸術、科学だけでなく、音楽の分野においても西洋文化に多大な影響を与えました。現代の音楽理論の基礎にも通じる概念が古代ギリシャで培われ、その中で多様な楽器が生まれ、発展してきました。これらの楽器は、神話、祭儀、演劇、そして日常生活に深く根ざし、当時の人々の感情や思想を表現する重要な手段でした。本稿では、古代ギリシャから現代に至るまでの主要なギリシャ楽器について、その特徴、歴史的背景、そして文化的意義を詳しく解説します。
古代ギリシャの主要な弦楽器
古代ギリシャにおいて、弦楽器は詩の朗読や歌の伴奏に不可欠であり、神話の中でも重要な役割を担っていました。アポロン神がリュラを奏でる姿はよく知られ、音楽と詩が密接に結びついていたことを示しています。
リュラ (Lyra)
リュラは古代ギリシャを代表する弦楽器であり、その原型は紀元前3000年頃まで遡るとされています。最も普及した形は、亀の甲羅や木製の共鳴胴を持ち、そこから伸びる二本の腕(ペーケース)に横木(ジュゴン)が渡され、羊の腸などで作られた弦が共鳴胴と横木の間に張られていました。通常、弦の数は7本が一般的でしたが、時代や地域によって増減することもありました。
- 構造と演奏法: リュラの弦は、現代のギターのように指で弾かれたり、プレクトロン(ピック)で掻き鳴らされたりしました。左手で弦を押さえて音程を変えることはほとんどなく、主に開放弦を演奏し、不要な弦は右手でミュートする奏法が主流でした。そのため、限られた音階の中で、詩の抑揚やリズムに合わせて伴奏する役割を担いました。
- 文化的意義: リュラはアポロン神の象徴とされ、調和、秩序、理性といった概念と結びつけられていました。詩人や吟遊詩人(アオイドス)が叙事詩や叙情詩を朗読する際にリュラの伴奏を用いることは一般的であり、教育や哲学の場でも重要な楽器とされていました。また、アマチュアの愛好家も多く、家庭内で楽しまれることもありました。
- 種類: リュラにはいくつかのバリエーションがありました。
- キタラ (Kithara): リュラよりも大型で、より複雑な構造を持つプロの演奏家向けの楽器でした。木製のしっかりとした共鳴胴を持ち、豊かな響きが特徴で、コンテストや大規模な祭典で用いられました。
- フォルミンクス (Phorminx): 初期に用いられたリュラの一種で、半円形の共鳴胴が特徴です。ホメロスの叙事詩にも登場し、英雄たちの時代に愛用されたとされます。
- バルビトン (Barbiton): 腕が長く、低い音域を持つリュラの一種で、酒宴や合唱の伴奏に用いられることが多かったとされています。
キタラ (Kithara)
キタラはリュラから発展した楽器で、より大きく、重厚な構造を持ち、プロの演奏家によって演奏されました。その洗練された音色は、大規模な祭典や劇場での演奏に適しており、リュラが素朴な伴奏楽器であったのに対し、キタラは主役となる独奏楽器としても用いられました。
- 特徴: 全体が木製で、堅牢な作りが特徴です。共鳴胴は深い箱型をしており、リュラよりも多くの弦(しばしば11本以上)を持つことができました。これにより、より広い音域と複雑なハーモニーを奏でることが可能でした。キタラ奏者は「キタローダス」と呼ばれ、高度な技術と深い音楽的知識を持つ専門家として尊敬を集めました。
- 役割: 公的な行事、音楽コンテスト、そして悲劇や喜劇の合唱部分の伴奏などで活躍しました。キタラはしばしば競技の賞品としても扱われ、演奏家の地位の高さを示していました。その堂々とした音色は、神々や英雄を称える歌にふさわしいとされました。
古代ギリシャの主要な管楽器
古代ギリシャの管楽器は、祭儀、演劇、軍事、そして娯楽など、多岐にわたる場面で用いられました。その中でも特に重要だったのがアウロスです。
アウロス (Aulos)
アウロスは古代ギリシャの管楽器を代表するもので、現代のオーボエやクラリネットの祖先ともいえるダブルリード楽器です。多くの場合、二本の管を同時に演奏するスタイルが特徴で、それぞれが異なる旋律や和音を奏でることで、豊かな響きを生み出しました。
- 構造と演奏法: アウロスは通常、骨、木、象牙などで作られ、指穴と、葦の茎で作られたダブルリードを持っていました。二本の管はしばしば同じ長さでしたが、一方の管が主旋律を奏で、もう一方が持続音やオクターブ違いの音を奏でることもありました。演奏者は頬を膨らませて吹き続ける循環呼吸の技術を駆使し、途切れることのない音色を生み出しました。
- 文化的意義: アウロスはディオニュソス信仰と深く結びついており、興奮、陶酔、情熱といった感情を呼び起こす楽器とされていました。祭儀、演劇(特に悲劇)、競技の開始合図、軍事行進、そして酒宴などで広く用いられました。その音色は、しばしばリュラの持つ「秩序」とは対照的な「混沌」や「感情の解放」を象徴すると見なされました。
- 影響: アウロスの音色は、現代の西洋音楽における管楽器の発展に間接的な影響を与えたとされています。その表現力豊かな特性は、当時の人々にとって非常に魅力的でした。
パンの笛 (Syrinx / Panpipes)
パンの笛は、複数の長さの異なる葦の管を束ねて作られた、素朴な管楽器です。ギリシャ神話に登場する牧羊の神パンに由来し、その名がつけられました。牧歌的な風景や田園生活と結びつけられることが多く、アウロスとは対照的に、より穏やかで自然な響きを持っていました。
- 構造と演奏法: 長さの異なる管は、下の端が閉じられており、それぞれの管に息を吹き込むことで異なる音程の音を奏でます。演奏者は、管の上端を唇で覆い、息を吹き込むことで音を出します。シンプルながらも、多様な音階を奏でることが可能でした。
- 文化的意義: パンの笛は、羊飼いや農民によって演奏され、牧歌的な音楽や踊りの伴奏に用いられました。神話では、パンがニンフのシュリンクスを追いかけ、彼女が葦に姿を変えた後、その葦からパンの笛を作ったという物語が語り継がれています。この楽器は、自然との調和や素朴な美しさを象徴するものでした。
その他の古代ギリシャ楽器
弦楽器や管楽器の他にも、古代ギリシャには多様な楽器が存在し、それぞれが特定の役割や儀式で用いられました。
打楽器
古代ギリシャの打楽器は、主にリズムを刻み、踊りを盛り上げるために使用されました。祭儀やディオニュソス信仰に関連する宴会で特に重要な役割を担いました。
- ティンパノン (Tympanon): 現代のタンバリンに似た枠付きの太鼓で、枠に動物の皮が張られていました。手で叩いて演奏され、女性によってよく用いられ、ディオニュソス祭の熱狂的な踊りの伴奏に不可欠でした。
- キュンバラ (Kymbala): 現代のシンバルに似た楽器で、青銅などの金属で作られた二枚の皿を打ち合わせて音を出しました。その鋭い音は、宗教的な儀式や行進において、集団の士気を高めるために用いられました。
- クロタラ (Krotala): 現代のカスタネットに似た、木製の小さな打楽器です。両手に持って打ち鳴らし、踊りのリズムを強調するために使われました。
水オルガン (Hydraulis)
水オルガン、あるいはヒュドラウリスは、古代ギリシャのヘレニズム時代に発明された、非常に複雑で革新的な楽器です。紀元前3世紀にアレクサンドリアのクテシビオスによって考案されたとされています。
- 構造と原理: 水オルガンは、ポンプで空気を水中に送り込み、その水圧を利用してパイプに空気を供給することで音を出す仕組みでした。これにより、安定した空気圧が確保され、持続的な音を奏でることが可能になりました。鍵盤とパイプの組み合わせは、現代のオルガンの原型ともいえる画期的なものでした。
- 用途と意義: その複雑な構造と豊かな音量は、当時の最先端技術の粋を集めたものであり、大規模な競技会、劇場、公的な儀式などで用いられました。水オルガンは、単なる楽器としてだけでなく、古代ギリシャの科学技術の高さを示す象徴でもありました。ローマ時代にも受け継がれ、さらに発展しました。
現代ギリシャの民俗楽器
古代ギリシャの楽器が西洋音楽の源流を築いた一方で、現代のギリシャには、独自の歴史と文化の中で育まれた豊かな民俗楽器が存在します。これらは、オスマン帝国の影響や東地中海の交流を通じて多様な変化を遂げ、現代ギリシャ音楽の魂となっています。
ブズーキ (Bouzouki)
ブズーキは、現代ギリシャ音楽、特にレベティコ音楽の中心的存在であり、ギリシャの国民的楽器ともいえる存在です。トルコや中東のリュート系楽器に起源を持ちますが、ギリシャで独自の発展を遂げました。
- 構造と音色: 長いネックと、洋ナシ形または卵形の共鳴胴が特徴です。通常は3コース6弦または4コース8弦で構成され、金属製のフレットが打たれています。鋭く、明るく、そしてどこか哀愁を帯びた独特の音色が魅力です。プレクトロン(ピック)で素早く弾かれ、複雑な旋律と即興的な演奏が特徴です。
- レベティコ音楽: 20世紀初頭にギリシャに流入した難民文化の中で生まれたレベティコ音楽は、ブズーキを主要楽器とし、社会の底辺に生きる人々の悲しみ、喜び、抵抗などを歌い上げました。ブズーキは、このジャンルの「声」そのものであり、ギリシャのアイデンティティを象徴する楽器となっています。
ウード (Oud)
ウードは、中東や北アフリカで広く使われているリュート系の楽器で、ギリシャの民俗音楽にも深く根付いています。ブズーキとは異なり、フレットがなく、より多様な音階(マイクロトーン)を奏でることが可能です。
- 構造と音色: フレットのない短いネックと、大きな洋ナシ形の共鳴胴が特徴です。通常は11弦または12弦で、柔らかく、深みのある、瞑想的な音色が魅力です。指や特殊なプレクトロンで演奏され、即興演奏(タキシム)や複雑な装飾音が多用されます。
- ギリシャ音楽での役割: 特にギリシャ東部の島々や小アジア出身のギリシャ人コミュニティの音楽で重要な役割を果たしてきました。ブズーキが中心となるジャンルとは異なる、より中東的な響きを持つ音楽で愛用されています。
クラリネット (Klarino)
西洋起源のクラリネットですが、19世紀以降、ギリシャの民俗音楽、特に大陸部の「ディモティカ」と呼ばれる伝統音楽に深く取り入れられ、その主役の一つとなりました。
- 演奏スタイル: ギリシャのクラリネット奏者は、豊かな装飾音と強いビブラートを特徴とし、東洋的な音階やメロディーを表現するために独自の演奏技術を発達させました。その音色は、しばしば踊りのリズムをリードし、祝祭や婚礼などの場面で欠かせない存在です。
ヴァイオリン (Violi)
クラリネットと同様に西洋起源のヴァイオリンも、ギリシャの民俗音楽、特にクレタ島やエーゲ海の島々の音楽において重要な役割を担っています。ヴァイオリンは、ギリシャ語で「ヴィオリ」と呼ばれ、その旋律はしばしば踊り手の感情を表現します。
- 地域音楽: クレタ島の音楽では、ヴァイオリンはリュラ(クレタ島固有の3弦の弓奏楽器)と共に主要な楽器として使用され、速いテンポと複雑なリズムを伴う踊りの伴奏に不可欠です。感情豊かで、時には哀愁を帯びたその音色は、ギリシャの多様な地域音楽の魅力を際立たせています。
ギリシャ楽器の文化的意義と現代への影響
ギリシャの楽器は、単なる音を出す道具以上の存在です。古代においては、音楽は哲学や数学、天文学と並ぶリベラル・アーツの一つであり、宇宙の調和や魂の浄化に貢献すると考えられていました。ピタゴラス音律に代表される音楽理論は、数学的な比率に基づいて音程を定義し、後の西洋音楽の発展に決定的な影響を与えました。
古代のリュラやアウロスが、現代のギターやオーボエ、クラリネットの直接的な祖先であるとは断言できませんが、古代ギリシャ人が追求した「メロディ」「ハーモニー」「リズム」の概念は、西洋音楽の根底に深く刻まれています。音楽が持つ感情表現の力、社会的な機能、教育的な価値といった認識は、古代ギリシャの時代から現代に至るまで受け継がれてきました。
現代のギリシャ音楽においても、ブズーキのような伝統楽器は、単に過去の遺産として保存されているだけでなく、新しい音楽ジャンルや表現形式の中で生き生きと演奏され、進化を続けています。レベティコ音楽から現代のポップスまで、ギリシャの音楽家たちは、伝統と革新を融合させながら、その豊かな音楽遺産を次世代へと繋いでいます。ギリシャ楽器は、過去と現在、そして未来を結ぶ文化の架け橋として、その魅力を放ち続けているのです。