エジプト楽器とは?
古代エジプト文明は、人類の歴史において偉大な足跡を残しました。その豊かな文化は、建築、美術、宗教だけでなく、音楽の分野においても特筆すべき発展を遂げています。ナイルの恵みを受けて栄えたこの地では、古くから多様な楽器が生まれ、宗教儀式、宮廷の娯楽、そして庶民の生活の中で重要な役割を果たしてきました。これらの楽器は、当時の壁画やレリーフ、発掘品などによってその姿を現代に伝え、今日のエジプト音楽のルーツを理解する上で不可欠な要素となっています。
本記事では、古代から現代に至るエジプトの楽器について、その歴史、種類、構造、そして文化的意義を深く掘り下げて解説します。古代の聖なるハープから、現代アラブ音楽を彩るウードやダルブーカまで、エジプトの音の遺産が織りなす壮大な物語を探訪しましょう。
古代エジプト文明と音楽の起源
古代エジプトにおける音楽の歴史は、非常に古く、紀元前3000年紀にまで遡ります。初期の文明において、音楽は単なる娯楽ではなく、宗教的な儀式、祝祭、そして日々の労働において不可欠な要素でした。壁画やレリーフには、神々に捧げられる歌や踊り、そして様々な楽器を演奏する人々の姿が頻繁に描かれており、当時の音楽がいかに生活に密着していたかを物語っています。
ナイル川の周期的な氾濫とそれに伴う農耕生活は、人々を自然のリズムに敏感にさせ、それが音楽表現へと繋がったと考えられています。また、王権の確立と神殿の建設は、より複雑で大規模な音楽儀礼を発展させる原動力となりました。発掘された楽器の残骸や、楽器の名称が記されたパピルス文書などは、当時の音楽文化を理解するための貴重な手がかりとなっています。
古代エジプトの楽器分類と代表例
古代エジプトの楽器は、大きく分けて弦楽器、管楽器、打楽器の3つのカテゴリーに分類できます。それぞれの楽器には、特定の社会的・宗教的役割があり、時代とともにその形態や演奏方法も進化していきました。
弦楽器
弦楽器は、古代エジプトにおいて特に神聖視され、高貴な楽器として扱われました。その優雅な音色は、神殿や宮廷の儀式に欠かせないものでした。
- ハープ(ベニート)
- 歴史と進化:ハープは、古代エジプトで最も古くから存在し、かつ最も重要な弦楽器の一つでした。エジプト語では「ベニート」と呼ばれ、その起源は紀元前3000年紀の初期王朝時代にまで遡ります。初期のハープは、弓のような湾曲した共鳴胴と数本の弦を持つシンプルな「アーチ型ハープ」でしたが、新王国時代(紀元前1550年〜1070年頃)になると、より洗練された「アングル型ハープ」が登場します。これは、直角に折れ曲がったフレームを持ち、より多くの弦を張ることが可能となり、音域も大幅に拡大しました。
- 構造と材質:ハープの共鳴胴は木材(ナツメヤシ、シカモアなど)で作られ、その開口部には動物の皮が張られていました。弦は植物繊維(麻、パピルスなど)や動物の腸でできており、時代やサイズによって弦の数は5本から20本以上に及びました。特に宮廷で用いられるハープは、象牙やエボニー、金などで豪華に装飾され、その美しさも称えられました。
- 用途と文化的意義:ハープは、神殿での宗教儀式、ファラオや貴族の宮廷での宴会、そして葬儀など、多岐にわたる場面で演奏されました。壁画には、ハープを演奏する楽団や、死者の魂を慰めるために演奏される様子が頻繁に描かれています。その音色は、しばしば神聖なものとして捉えられ、天上の音楽を奏でるとも考えられていました。
- リュート(ネフェル)
- 起源と伝播:リュートは、古代エジプトにおいて新王国時代に入ってから東方(メソポタミア)より伝来したと考えられています。エジプト語では「ネフェル」と呼ばれ、ハープとは異なる軽快な音色と演奏スタイルで、庶民の間でも広く親しまれました。
- 構造と特徴:リュートは、長く細いネックと小さな楕円形または洋ナシ型の共鳴胴を持つ撥弦楽器です。弦は2本または3本で、指や撥(ピック)を使って演奏されました。ネックにはフレットがなく、演奏者は弦を直接押さえて音程を変えることで、多様なメロディーを生み出しました。
- 演奏スタイルと役割:リュートは、主に舞踊の伴奏や、愛の歌、労働歌など、より日常的で世俗的な音楽に用いられました。壁画には、リュートを弾きながら踊る女性や、他の楽器と共にアンサンブルを組む様子が描かれています。その携帯性と演奏のしやすさから、当時のポップスのような役割を担っていたと言えるでしょう。
- リラ
- ギリシャ・ローマ文化の影響:リラは、古代ギリシャやローマで広く用いられた弦楽器で、エジプトにはプトレマイオス朝時代(紀元前332年〜30年)以降に導入され、広まりました。その形状は、ハープと異なり、両側に腕が伸び、そこに横棒(ヨーク)が渡され、弦が共鳴胴からヨークに向かって張られています。
- 持ち運びやすさと演奏方法:リラは比較的小型で持ち運びが容易であり、歌の伴奏や個人の娯楽として用いられました。指で弦を弾くことで、穏やかで澄んだ音色を奏でました。
管楽器
管楽器は、その構造上、音を遠くまで響かせることができ、合図や儀式、そして牧歌的な音楽に用いられました。
- 笛(メム)
- 最も原始的な楽器:笛は、人類が最初に手にした楽器の一つであり、古代エジプトでも非常に広く普及していました。エジプト語では「メム」と呼ばれ、最も一般的なものは葦(あし)や竹、木材などで作られたシンプルなものでした。
- 種類:古代エジプトには、現代の縦笛にあたる「縦笛」の他に、二本の笛を並列に繋いで同時に演奏する「ダブルオーボエ」のような楽器も存在しました。これらの笛は、数個の指穴を持ち、素朴ながらも豊かな音色を生み出しました。
- 用途:笛は、牧歌的な情景を描写する音楽や、労働歌、そして宗教的な儀式の一部として用いられました。そのシンプルさゆえに、あらゆる階層の人々に親しまれていました。
- トランペット
- 希少性と材質:古代エジプトのトランペットは、非常に珍しい楽器であり、主に軍事的な合図や宗教的な儀式のために用いられました。最も有名なのは、ツタンカーメン王の墓から発掘された二本のトランペットで、一本は青銅製、もう一本は銀製です。これらは現存する古代エジプトの楽器の中でも特に貴重な遺物です。
- 用途:トランペットは、戦場で兵士を鼓舞したり、神殿の儀式で神々を呼び起こす際に吹かれました。その音色は、限られた音階しか出せませんでしたが、その荘厳な響きは人々に強い印象を与えたことでしょう。
打楽器
打楽器は、古代エジプトの音楽にリズムと躍動感をもたらしました。特に宗教儀式や舞踊において、その重要性は計り知れないものでした。
- シスラム(シストルム)
- 宗教儀式に特化した楽器:シスラムは、古代エジプトにおいて特に宗教儀式、中でも女神イシス信仰に深く結びついていた打楽器です。その独特の形状と音色は、神聖な雰囲気を醸し出すために用いられました。
- 構造:シスラムは、U字型または四角い金属の枠に、複数の棒が通され、その棒に小さな金属製のディスクやリングが取り付けられた構造をしています。これを振ることで、ディスクが擦れ合い、シャラシャラとした神秘的な音を立てます。
- 音色と効果:シスラムの音色は、悪霊を払う力があると信じられ、神殿の行列や神々を招き入れる儀式で頻繁に用いられました。多くの壁画や彫刻に、女神イシスや彼女の聖職者がシスラムを手にしている姿が描かれています。
- タンバリン(タル)とドラム(ダーブカ)
- 多様な形態の打楽器:古代エジプトには、様々な種類の打楽器が存在しました。フレームドラムである「タンバリン(タル)」は、木の枠に動物の皮を張ったシンプルなもので、手で叩いて演奏されました。また、円筒形やゴブレット型(盃型)の「ドラム(ダーブカ)」も存在し、これらは祭りや舞踊、宴会のリズムの中心となりました。
- 用途:これらの打楽器は、祝祭や集団での踊りを盛り上げるために不可欠でした。その多様なリズムは、人々の心を高揚させ、一体感を生み出しました。
- シンバル(サガット)
- 指シンバル:古代エジプトのシンバルは、現代のオーケストラで使われるような大型のものではなく、主にダンサーが指に装着して用いる小型の「指シンバル(サガット)」が一般的でした。
- 起源と用途:これらは、舞踊の動きに合わせて金属が触れ合うことで、軽快で華やかな音を添えました。その起源は東方にあり、新王国時代以降にエジプトでも普及しました。
現代エジプト音楽における楽器とその変遷
古代エジプトの音楽文化は、その後の歴史の流れの中で、イスラム文化やオスマン帝国の影響、そして近代以降の西洋音楽の影響を受けながら、独自の進化を遂げてきました。今日のエジプト音楽は、古代の遺産とこれらの多様な文化が融合した、豊かな音の世界を形成しています。
アラブ古典音楽の主要楽器
エジプトは、アラブ世界の音楽文化の中心地の一つであり、多くのアラブ古典音楽の主要楽器がエジプトで発展し、多くの名演奏家を生み出してきました。
- ウード
- アラブ音楽の王様:ウードは、リュートの祖先とも言われる撥弦楽器で、「アラブ音楽の王様」と称されるほど、アラブ世界全体で最も重要で尊敬される楽器です。エジプトにおいても、その地位は揺るぎません。
- 構造と音色:梨のような独特の形状の共鳴胴を持ち、長いネックにはフレットがありません。これにより、奏者は微分音(半音よりもさらに細かい音程)を自由に表現でき、アラブ音楽特有の複雑で感情豊かなメロディーを生み出します。通常、5コース(10本)または6コース(12本)の弦を持ち、柔らかな撥(リシャ)で演奏されます。
- エジプトでの発展と名演奏家:エジプトでは、ムハンマド・アブドゥル・ワッハーブやファリード・アル・アトラッシュなど、数々の伝説的なウード奏者兼作曲家が生まれ、アラブ音楽の発展に多大な貢献をしました。
- カーヌーン
- 撥弦楽器:カーヌーンは、台形の箱型の共鳴胴を持つ撥弦楽器で、70本以上の弦が張られています。両手の指先につけた金属のピック(プラクトラ)で弦を弾くことで、非常に繊細で透明感のある音色を奏でます。
- 繊細な音色と複雑な旋律:多数の弦と、各弦を細かく調整できるレバー(マンダル)を備えているため、アラブ音楽の複雑なマカーム(旋法)を表現するのに最適な楽器の一つです。エジプトの古典アンサンブル「タハト」において、ウードとともにメロディーの核を担います。
- ナイ
- 葦製の縦笛:ナイは、一本の葦(アシ)の茎から作られるシンプルな縦笛ですが、その音色は非常に神秘的で感情に訴えかけます。指穴の数によって音域が異なり、複数のサイズのナイが使い分けられます。
- 特徴的な音色と感情表現:ナイの演奏は、息のコントロールと唇の当て方によって、無限の音色と表現を生み出します。特にスーフィー音楽(イスラム神秘主義の音楽)においては、その瞑想的で幽玄な響きが、精神的な高揚や神との一体感を表現するために用いられます。
- ダルブーカ(タブラ)
- 現代エジプト音楽のリズムの核:ダルブーカは、ゴブレット型(盃型)のハンドドラムで、現代エジプト音楽においてリズムの最も重要な要素の一つです。エジプトでは「タブラ」とも呼ばれます。
- 様々な奏法と役割:胴体は金属(アルミニウムや銅)や粘土で作られ、上部には魚の皮や合成素材の膜が張られています。指や手のひらを使い分ける多様な奏法によって、「ドゥム」(低いベース音)、「タック」(高いリム音)、そして「パッ」(中央を軽く叩く音)など、多彩な音色と複雑なリズムパターンを生み出します。ベリーダンスやフォークロア音楽、ポップスなど、あらゆるジャンルで不可欠な存在です。
- レク
- フレームドラムとシンバル:レクは、フレームドラム(枠太鼓)の一種で、木の枠に動物の皮(通常はヤギの皮)が張られ、側面に小さな金属製シンバル(ジングル)が取り付けられています。現代のタンバリンに似た形状をしています。
- ソロ演奏からアンサンブルまで:叩いたり振ったりすることで、ドラムの音とシンバルのチャリチャリとした音が組み合わさり、華やかでリズミカルな効果を生み出します。アラブ古典アンサンブルにおいて、ダルブーカとともにリズムセクションを構成する重要な楽器です。
現代エジプト音楽の多様性
現代のエジプト音楽は、単一のスタイルに留まらず、多様なジャンルが共存しています。
- フォークロア音楽:エジプト各地には、それぞれの地域に根ざした独自の民俗音楽が存在します。アッパーエジプト(上エジプト)のサイーディー音楽や、ナイルデルタ地方の音楽など、地域特有の楽器やリズムが用いられ、今日でも大切に受け継がれています。
- 現代ポップスとフュージョン:20世紀後半から、西洋音楽の影響を受けたエジプトポップスが台頭しました。アラブ楽器とエレキギター、キーボード、ドラムセットなどの西洋楽器が融合し、新たなサウンドを生み出しています。
- 宗教音楽:イスラム教の詠唱(コーラン朗誦)や、スーフィー音楽、そしてコプト正教会の聖歌など、宗教的な文脈における音楽もエジプトの音楽文化の重要な一部を占めています。これらの音楽では、特定の楽器が用いられたり、声のみで表現されたりすることがあります。
エジプト楽器が織りなす文化的意義と未来
エジプトの楽器は、単なる音を奏でる道具以上の意味を持っています。それらは、古代からの信仰、歴史的な出来事、そして人々の感情を現代に伝える、生きた文化遺産と言えるでしょう。
古代エジプトの楽器が壁画やレリーフに描かれ、発掘品として現存していることは、当時の音楽が社会のあらゆる側面に深く浸透していたことの証拠です。これらの視覚資料や考古学的発見は、音楽学者が古代の音の世界を再構築するための重要な手がかりを提供しています。
現代においても、ウード、カーヌーン、ナイ、ダルブーカといった楽器は、エジプトのみならずアラブ世界の音楽の基盤を形成し続けています。これらの楽器を通じて、過去の伝統が現代の表現と融合し、新たな音楽が生み出されています。また、エジプトの音楽家たちは、伝統的な楽器の演奏技術を次世代に伝え、同時に国際的な舞台でエジプト音楽の魅力を発信しています。
観光においても、エジプトの音楽は重要な要素です。ナイル川クルーズでの伝統音楽の演奏、ベリーダンスショー、カフェでのウードの生演奏などは、訪れる人々にエジプトの文化を肌で感じる機会を提供しています。
まとめ:音の遺産が語るエジプトの魂
古代エジプト文明から現代に至るまで、エジプトの楽器は、その豊かな歴史と多様な文化を映し出す鏡であり続けてきました。ハープの聖なる響き、リュートの軽快な調べ、シスラムの神秘的な音、そしてウードやダルブーカが織りなす現代アラブ音楽のリズムは、時代を超えてエジプトの人々の魂を表現してきました。
これらの楽器は、単に過去の遺物として博物館に展示されるだけでなく、今もなおエジプトの音楽家たちの手によって生き生きと演奏され、その魅力を世界中に広めています。エジプト楽器の音色は、ナイルの岸辺で育まれた文明の深遠さと、人々の創造性が詰まった、まさに「音の遺産」なのです。その響きに耳を傾けることは、エジプトの歴史と文化の核心に触れることと言えるでしょう。