バルカン楽器とは?
バルカン半島――東ヨーロッパの南部に位置し、地中海、エーゲ海、黒海に囲まれたこの地域は、地理的、歴史的に非常に多様な文化が交錯してきました。古代ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国といった大帝国の影響を受け、キリスト教とイスラム教、東洋と西洋の文化が融合し、独自の音楽世界を築き上げてきたのです。この豊かな土壌から生まれた楽器の数々は、バルカン半島の多様な民族性、歴史、そして人々の感情を色濃く反映しています。
バルカン楽器は、その地域の多様性と同様に、非常に幅広い種類が存在します。地域ごとに異なる名称で呼ばれることがありますが、似た構造を持つ楽器が広く使われていたり、隣接する文化圏からの影響を色濃く受けていたりするのも特徴です。擦弦楽器、撥弦楽器、管楽器、打楽器と多岐にわたり、それぞれが地域の音楽文化において重要な役割を担っています。本稿では、そんなバルカン楽器の魅力と、それが織りなす音楽文化について深く掘り下げていきます。
バルカン楽器の多様性と地域性
バルカン半島は、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ、コソボ、アルバニア、北マケドニア、ギリシャ、そしてトルコのヨーロッパ側の一部を含む広大な地域を指します。これらの国々には、スラヴ系民族、ロマ(ジプシー)、トルコ系民族、アルバニア系民族、ギリシャ系民族など、実に多様な民族が暮らしており、それぞれが独自の言語、宗教、そして音楽文化を持っています。
オスマン帝国の約500年にわたる支配は、バルカン半島の音楽に深く影響を与えました。中東やトルコ由来の楽器や音階、リズムパターンが地域に広まり、土着の音楽と融合した結果、ユニークなサウンドが形成されました。また、東ヨーロッパのスラヴ文化、西ヨーロッパのクラシック音楽、さらには地中海沿岸のギリシャ文化など、様々な要素が混じり合い、各地域で異なる音楽の伝統が発展していったのです。
例えば、ブルガリアでは「ガドゥルカ」や「カヴァル」といった独自の楽器が発達し、複雑なリズムと豊かなハーモニーを持つダンス音楽が盛んです。セルビアや北マケドニアでは、婚礼や祭りで使われる大編成のブラスバンドが有名で、力強く華やかなサウンドが特徴です。ギリシャでは「ブズーキ」がレベティコ音楽に欠かせない存在であり、ルーマニアでは「パイプ」や「ツィンバロム」が民族音楽に色彩を添えます。これらの楽器は、単に音を奏でる道具に留まらず、各民族のアイデンティティや歴史を物語る重要な文化遺産と言えるでしょう。
主要なバルカン弦楽器
バルカン半島の音楽において、弦楽器はメロディ、ハーモニー、リズムのいずれにおいても中心的な役割を担っています。擦弦楽器から撥弦楽器、そして打弦楽器まで、その種類は多岐にわたります。
弦を擦る楽器
- ガドゥルカ (Gadulka):ブルガリアを代表する擦弦楽器で、洋梨のような形状をしています。胴体は木製で、前面には共鳴孔が開いています。弦は通常3〜4本あり、さらにその下に共鳴弦が複数(通常7〜10本)張られているのが特徴です。共鳴弦は演奏者の指が直接触れることはなく、主弦の振動に共鳴して豊かな響きを生み出します。演奏は座って行われ、楽器を立てて膝に挟み、弓で弦を擦ります。弓は手のひらの内側から握る独特の持ち方をし、爪で弦を押さえるように演奏します。音色は柔らかく、哀愁を帯びていると評され、主にメロディ楽器として、またハーモニーを奏でるのにも用いられます。ブルガリアの伝統的なダンス音楽「ホロ」や歌の伴奏に欠かせない楽器です。
- グスラ (Gusle):南スラヴ圏、特にセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロなどで見られる、一本または二本の弦を持つ擦弦楽器です。グスラは単なる楽器ではなく、叙事詩的な歌「エピックソング」の語り部が、物語を朗誦しながら伴奏する際に用いられる文化的な象徴です。胴体は木製で、動物の皮(羊やヤギなど)が張られていることが多く、ネックの先端には動物や伝説上の生き物の彫刻が施されていることもあります。音色は素朴で力強く、語り手の声と一体となって物語の世界観を深めます。その演奏は、地域の歴史や英雄譚を継承する重要な役割を担っています。
- リラ (Lyra):主にギリシャのクレタ島やドデカニサ諸島で見られる擦弦楽器です。3本の弦を持ち、洋梨のような小さな胴体、そして短く太いネックが特徴です。ガドゥルカと同様に、演奏は楽器を膝に立てて弓で擦ります。クレタ島の「クレタン・リラ」は特に有名で、その独特の音色はクレタの伝統音楽に不可欠な要素となっています。情熱的でありながらもどこか憂いを帯びた音色が特徴で、クレタのダンスや歌の伴奏によく使われます。
弦を弾く・打つ楽器
- タンブラ (Tambura):南スラヴ圏で広く普及している撥弦楽器で、マンドリンやブズーキに似た形状をしています。その起源は中東の「タンブール」に遡るとされ、オスマン帝国の影響でバルカン半島に伝わりました。サイズや弦の数、チューニングは地域や演奏するアンサンブルによって多岐にわたります。小さいものは「プライム・タンブラ」、中型のものは「バラトン・タンブラ」、大型のものは「チェロ・タンブラ」や「ベース・タンブラ」と呼ばれ、オーケストラのように組み合わせて演奏されることもあります。主にプレクトラム(ピック)で演奏され、メロディ、ハーモニー、リズムのいずれにおいても重要な役割を果たします。特にクロアチアやセルビアの伝統音楽では、タンブラ・オーケストラが盛んに活動しています。
- ブズーキ (Bouzouki):ギリシャの代表的な撥弦楽器で、長いネックと洋梨型の胴体を持つリュート族の楽器です。元々はオスマン帝国の「サズ」と関連が深いとされ、20世紀初頭にギリシャの都市部で発展した「レベティコ」音楽と共に広く知られるようになりました。現代のブズーキは通常4コース8弦で、マンドリンのように金属弦が用いられ、明るく響きの良い音色が特徴です。プレクトラムで演奏され、速いパッセージや複雑なメロディを奏でることができます。レベティコの他、現代のギリシャのポップ音楽やワールドミュージックでも広く使われています。
- サンツーリ (Santur) / ツィンバロム (Cimbalom):これらはハンマーで弦を叩いて音を出す打弦楽器の一種です。起源は古代メソポタミアにまで遡るとされ、中東の「サンツーリ」がバルカン半島に伝わり、特にルーマニア、ハンガリー、スロバキアなどで「ツィンバロム」として発展しました。台形の木製共鳴箱に多数の弦が張られ、小さな木製ハンマーで弦を叩いて演奏します。サンツーリはより小型で繊細な響きを持ち、ツィンバロムは大型でペダルを備え、豊かな音量とダイナミクスを表現できます。特にロマ音楽やルーマニアの伝統音楽「ラウタリ」において、その鮮やかで煌びやかな音色はアンサンブルに欠かせない要素となっています。
魅力的なバルカン管楽器
バルカン半島の管楽器は、素朴な笛から力強いダブルリード楽器、そして現代的な金管楽器まで、非常に幅広い音色と役割を持っています。それぞれの楽器が、地域の風景や生活と深く結びついています。
木管楽器
- カヴァル (Kaval):ブルガリア、北マケドニア、ルーマニア、トルコなどで広く使われるリードのない縦笛です。桜の木やプラムの木など硬質な木材で作られることが多く、全長は60〜90cmと比較的長いです。7〜8つの指穴と、底部の複数の調整孔(dusha)が特徴で、これにより独特の倍音と響きを生み出します。カヴァルは息を吹き込む角度と強さによって、様々な倍音と音色を巧みに使い分けることができ、牧歌的で深く、どこか物憂げな音色が特徴です。主にメロディ楽器として、羊飼いの歌やブルガリアの伝統的なダンス音楽に欠かせない存在です。
- パイプ (Pipes) / フルイ (Fluiere):ルーマニアを中心に、様々な種類の木製縦笛が使われています。これらは総称して「フルイエレ」と呼ばれ、その長さや指穴の数によって異なる音域と音色を持ちます。小型のものは高音で明るい音色、大型のものは低音で深い響きを持ちます。素朴な作りながらも、演奏者の息遣いによって豊かな表現が可能で、ルーマニアの農村部でのダンス音楽や叙情的なメロディによく用いられます。
- ズールナ (Zurna):中東起源のダブルリード楽器で、バルカン半島全域、特にブルガリア、北マケドニア、トルコ、アルバニアなどで見られます。非常に大きな音量と独特のけたたましい音色が特徴で、屋外での祭りや婚礼など、賑やかな行事に欠かせません。木製で円錐形の管体と、先端に付けられた金属製のベル、そして小さなダブルリード(噛んで吹く)が特徴です。通常は「タパン」と呼ばれる大型の太鼓と組み合わせて演奏され、力強いダンス音楽や行進曲を奏でます。
金管楽器・その他
- トランペット、トロンボーンなど:近代に入って導入された西洋の金管楽器は、特にセルビアや北マケドニアの「バルカンブラス」と呼ばれるブラスバンド音楽において、その真価を発揮しています。ロマ(ジプシー)の音楽家たちによって採り入れられ、独自の演奏スタイルと熱狂的な音楽文化を築き上げました。複数のトランペット、トロンボーン、テューバ、そして打楽器が一体となって、速いテンポと複雑なメロディ、そして強烈なグルーヴを生み出します。結婚式や祭りでは欠かせない存在であり、近年ではワールドミュージックの分野でも国際的な評価を得ています。
- アコーディオン (Accordion):こちらも比較的近代に導入された楽器ですが、その豊かな表現力と移動のしやすさから、バルカン半島の様々な地域で急速に普及しました。特にセルビア、ルーマニア、ブルガリアなどでは、伝統的なダンス音楽からポップ音楽、そしてロマ音楽に至るまで、幅広いジャンルで活躍しています。メロディ、ハーモニー、ベースラインを一台でまかなえるため、ソロ演奏からアンサンブルまで対応でき、その華やかで力強いサウンドは、バルカン音楽に新たな彩りを加えています。
バルカン打楽器とリズムの魅力
バルカン音楽のリズムは、しばしば複雑で変拍子を多用するのが特徴です。これは地域の多様な文化が影響し合って生まれたもので、打楽器はそのリズムの核を担っています。
- タパン (Tapan) / ゴッチ (Goč) / ダヴル (Davul):これらは、バルカン半島の広い地域で使われる大型の両面太鼓の総称です。呼び名は地域によって異なりますが、木製の胴体に動物の皮(通常はヤギや羊の皮)が張られ、両側から叩くのが特徴です。片面は木のバチで叩き、もう片面は細い木の棒や手で叩くことで、深く響く低音と鋭い高音を同時に奏でます。その力強い音量は屋外での演奏に適しており、ズールナと組み合わせて婚礼や祭りなどの盛大なイベントで演奏されることが多く、人々を踊りへと誘う強力なリズムの駆動力となります。
- ダルブッカ (Darbukka) / ダーブッケ (Dabuke):中東起源のゴブレットドラム(聖杯型太鼓)で、指や手のひらを使って叩き、多彩な音色と複雑なリズムを刻みます。陶器や金属で作られた胴体に魚の皮やプラスチック製の皮が張られています。バルカン半島では、特にトルコやギリシャ、アルバニアなどで見られ、ベリーダンスの伴奏や、アンサンブルのリズム楽器として活躍します。その軽快で精密なリズムは、音楽に躍動感を与えます。
- リケン (Riqen):トルコや中東のタンバリン型のフレームドラムで、バルカン半島にも伝わっています。木製のフレームに皮が張られ、フレームの縁には小さなシンバルが取り付けられています。手や指で皮を叩くだけでなく、シェイクしたり、シンバルを鳴らしたりすることで、幅広い音色とリズム効果を生み出します。特に、ダルブッカと共に、複雑な中東由来のリズムパターンを演奏するのに使われます。
バルカン楽器が織りなす音楽文化
バルカン楽器は、単に音を奏でるだけでなく、地域の歴史、信仰、社会生活と密接に結びついています。それぞれの楽器が、特定の音楽ジャンルや儀礼において重要な役割を担っています。
ダンス音楽
バルカン半島は、活気に満ちた円舞(輪になって踊るダンス)の宝庫です。ブルガリアの「ホロ」、セルビアの「コロ」、ギリシャの「シルト」など、地域ごとに独自のダンスがあり、それぞれのリズムとメロディに合わせて楽器が演奏されます。ガドゥルカ、カヴァル、アコーディオン、タンブラ、そしてタパンやズールナの組み合わせが、人々を熱狂させ、一体感を生み出すのです。これらのダンスは単なる娯楽ではなく、コミュニティの結束を強める重要な社会的機能を持っています。
叙事詩歌唱と物語
グスラを用いた叙事詩歌唱は、南スラヴ圏における口頭伝承の重要な形態です。グスラ弾きは、英雄の物語や歴史的事件、伝説などを歌と語りによって何時間も、時には何日もかけて披露します。この文化は、識字率が低かった時代において、知識や歴史を次世代に伝える上で極めて重要な役割を果たしました。グスラの素朴な音色は、物語の重みと語り手の情熱を一層引き立てます。
祭り、婚礼、そしてロマ音楽
バルカン半島では、祭りや婚礼が音楽と密接に結びついています。特にズールナとタパンの組み合わせは、屋外での盛大な儀礼音楽に不可欠であり、その力強い音色は遠くまで響き渡り、人々に喜びと活力を与えます。また、ロマ(ジプシー)の人々は、バルカン音楽文化に絶大な影響を与えてきました。彼らは優れた音楽家であり、様々な地域の楽器を自在に操り、独自の解釈と演奏スタイルで音楽を発展させてきました。アコーディオン、ヴァイオリン、クラリネット、そして金管楽器は、ロマの音楽家たちの手によって、バルカン半島中に広がり、多様な音楽ジャンルに新たな息吹を吹き込んできました。
現代におけるバルカン音楽
伝統的なバルカン楽器と音楽は、現代においても生き続けています。多くの伝統音楽家たちが、その技と知識を次世代に伝えようと努力しています。同時に、ジャズやロック、ワールドミュージックの要素を取り入れた新たな解釈も生まれています。セルビアのバルカンブラスバンドが国際的なフェスティバルで人気を博したり、バルカン音楽のリズムやメロディが世界中のDJやプロデューサーによってサンプリングされたりするなど、その魅力は国境を越えて広がり続けています。
バルカン楽器は、その見た目の美しさや音色の豊かさだけでなく、バルカン半島の複雑な歴史と多様な文化を内包しています。擦弦楽器が奏でる哀愁のメロディ、管楽器が響かせる祝祭の調べ、そして打楽器が刻む生命のビート。これら全てが一体となって、バルカン半島の魂を表現しています。それぞれの楽器が持つ物語を知ることは、単に音楽を理解するだけでなく、その地域の文化や人々の心に触れることにも繋がるでしょう。バルカン楽器が織りなす奥深く、そして情熱的な世界は、これからも多くの人々を魅了し続けることでしょう。